最高裁判所第三小法廷 昭和45年(オ)266号 判決 1970年11月24日
上告人
甲野太郎
(仮名)
代理人
前田寛
被上告人
甲野花子
(仮名)
被上告人
甲野乙男
(仮名)
右両名代理人
川本赳夫
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告上告人前田寛の上告理由第一点ないし第四点について。
訴外亡甲野ようは、昭和四二年一二月中に、被上告人両名と養子縁組の合意をしたうえ、その後間もなく、訴外中川寿代に対し右縁組の届出の委託をしていたものであり、そして、その後右委託にもとづく届出が館山市長により受理された昭和四三年三月一八日午後四時ごろまでの間に、甲野ようが右縁組を翻意したなどの特段の事情は存在しなかつた、とした原審の認定判断は原判決挙示の証拠関係に照らして、首肯することができないわけではなく、右事実関係のもとにおいて、本件養子縁組の届出が甲野ようの意思によるものであつた、とした原審の判断は、正当として是認することができる。したがつて、原判決に所論の違法はなく、論旨は、ひつきよう、原審の適法にした証拠の取捨判断および事実の認定を非難し、または、原判決を正解せず、原審の認定にそわない事実関係を前提として、原判決の違法をいうものにすぎず、採用することができない。
同第五点について。
当事者間において養子縁組の合意が成立しており、かつ、その当事者から他人に対し右縁組の届出の委託がなされていたときは、届出が受理された当時当事者が意識を失つていたとしても、その受理の前に翻意したなどの特段の事情の存在しないかぎり、右届出の受理より養子縁組は有効に成立するものと解するのが相当である。したがつて、これと同旨に出た原審の判断は正当であり、原判決に所論の違法はない。なお、所論の大審院判例(大正六年(オ)第九六八号同年一二月一〇日判決・民録二三輯二一七八頁、昭和六年(オ)第一八四二号同七年二月一六日判決・法学一巻七号一一一頁)は、右判示に反する限度において、これを変更すべきものである。論旨は、理由がなく、採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。(関根小郷 下村三郎 松本正雄 飯村義美)
上告代理人の上告理由
第一点〜第四点<省略>
第五点 原判決には大審院判例に相反する判断をした違法がある。
原判決理由は昭和四二年一二月中に縁組の申込に対する承諾があつたので、甲野ようは昭和四三年二月中に中川寿代に印鑑を預けて早急に届出することを依託した。控訴人(被上告人)文代は出産予定日が三月一八日(出産は三月五日)であつたので、寿代は出産後届出ることにしていた所、ようから他に印鑑の必要がある、との話があり、三月一日頃印鑑を返還した。
甲野ようは三月一八日午前零時前後頃脳溢血で倒れ、午前一時頃医師が往診したが、既に意識消失昏睡状態でありこの状態を続けた儘、翌一九日午前九時二〇分に死亡した。
ようは脳溢血で倒れた時に、介抱した中川文五郎に入籍のことを口走るなどしたので、寿代が三月一八日午後四時少し前頃、ようの印鑑を再び手にして館山市役所に出頭、市吏員に縁組届の代書を依頼、これを届出て即日受理された。として、
「甲野ようが控訴人(被上告人)らと養子縁組をする意思を有し、且つその届出を中川寿代に依託していたものであることは、前記認定のとおりであるから、本件届書が受理された昭和四三年三月一八日当時、ようが意識消失の状態に在つたとしても、届書の受理前にようが控訴人(被上告人)らと養子縁組をすることを翻意するなど特段の事情の認められない本件においては、前記認定の養子縁組届の受理によつて、ようと控訴人らの養子縁組は有効に成立したものと解するを相当とする」としている。
本件意思無能力者の代書による第三者の縁組届出に対して、ようの寿代に対する届出委託の存在しないことは上告理由第三点に於て、又ように縁組意思がなかつたことは上告理由第一点、第二点及び第四点に於て、夫々述べた通りである。これ等の上告理由は一応別としても、本件養子縁組届はようが昏睡状態に陥り意思能力を喪失した以後に於て、この状態が継続している最中に届書の作成、届出、受理が行はれたものであるから本件養子縁組は無効である。
民法第八〇二条第一号は人違その他の事由によつて当事者間に縁組をする意思がないときは、縁組は無効である旨を規定している。
意識を消失して昏睡状態を続けている者は意思がない者であつて有効な縁組をなし得ないことは極めて明白である。又民法第七三九条の規定を準用する縁組は身分上の要式行為であり縁組届の作成、届出、受理の各段階を必要とするものであるが、当事者の縁組をする意思はこの各段階に於て存在しなければならないことも又極めて明白である。
従つて昏睡状態を続けている意思無能力者は縁組届の作成、届出等を有効に行うことができない。意思無能力者の縁組届の作成、届出等は通常の場合受託者等第三者により行はれるのを常とするが、何人により為されたるを問はず、その当時本人が意思無能力者であるときには、届出本人が自ら行つた場合と同様に、届書の作成、届出等は有効なものにはならない。
縁組は届出を以て成立条件とする為、届出当時の意思の有無を中心として判断される例が多いが、以上の見解は、次の大審院判例等により古くから明示されている所である。原判決は次の大審院判例に相反する判断をしている。
「按ズルニ人違其他ノ事由ニ依リ当事者間ニ縁組ヲ為ス意思ナキトキハ其縁組ヲ無効トスル旨ヲ規定シタル民法第八百五十一条ハ単ニ所論ノ如ク縁組当事者ニ於テ意思能力ヲ有シ且其ノ縁組ノ届出ヲ為シタルニ拘ハラズ人違其他ノ事由ニ依リ其効果ヲ欠如スル場合ノミヲ規定シタルモノニ非ズシテ縁組当事者カ全然意思能力ヲ有セサルニ拘ハラス、縁組ノ届出ヲ為シタル場合ハ勿論、此他尚、当事者間ニ縁組契約成立シタルモノトシテ第三者ヨリ戸籍吏ニ届出ヲ為シタル場合モ亦、該法条ノ適用アルモノト解スルヲ妥当ナリトス(中略)而シテ原判決ノ認メタル事実ニ依レハ大正四年一月一一日戸籍吏ニ養子縁組ノ届出ヲ為シタル当時被上告人実母とくは老耄性痴呆ニ因リ心神喪失ノ常況ニ在リ、上告人ト養子縁組ヲ為スノ意思能力ヲ全然欠如シタリト云フニ在ルヲ以テ、右縁組届出カ何人ノ手ヨリ為サレタルヲ問ハス、前記民法第八百五十一条ニ依リ、本件養子縁組ノ無効タルヤ多言ヲ要セスシテ明カナリ」)大正六年(オ)第九六八号、同年一二月二〇日大審院民事二部判決。大審民録二二輯二、一七八頁。民抄録七五巻一七、三五二頁)
民法第八五一条(現行八〇二条)の解釈として、養子縁組の合意があつたとの理由で第三者が届書の提出をしても、それが何人の手より為されたるかを問はず、意思無能力者の縁組届である場合には無効である旨、並びに、右趣旨の大正六年(オ)第九六八号の大審院判例があり、この大審院判決以来一貫して、判例は、身分行為の届出が有効である為には、届出当時に届出本人の意思能力を必要とし、従つて、たとえ縁組の儀式を挙げ、その披露をし、同居していたとしても、縁組届出の時に、当事者本人が疾病の為意思能力がない場合には、縁組の意思を欠如したものとして縁組は無効である(昭和六年(オ)第一八四二号同七年二月一六日大審院民事部判決、法学一巻下一一一頁)の判例もある旨、を上告人は第一審の昭和四三年六月二四日付原告第二回準備書面に基く口頭弁論に於ける陳述以来、主張して来たのであるが、原判決は、これ等の大審院判例に相反する判断を示すに付ても、判例を採用しない理由を何等示していない。
上告人は、本件上告事件は右の判例に従い判断するのを至当と信ずるので、原判決には大審院判例に相反する判断をした違法があり、破棄せらるべきものと信ずる。
以上いずれの論点よりするも原判決は違法であり破棄さるべきものである。
<参考・原審判決理由>
(東京高裁昭和四四年(ネ)第九五四号、同四四年一二月一五日第九民事部判決)
〔理由〕 <証拠>を総合すると、被控訴人が亡甲野ようの実弟で同人を相続すべき地位にあること、控訴人花子が右ようの内縁の夫訴外中川文五郎の孫で、控訴人正次は花子の夫であること。昭和四三年三月一八日午後にようと控訴人両名との養子縁組届が館山市長に提出され、即日受理されたことおよび甲野ようは昭和四三年三月一八日午前零時前後頃便所に行くため廊下に出かゝつたとき自室の入口附近で脳溢血で倒れ、同日午前一時頃医師の往診を受けたが、そのときは既に意識消失昏睡状態等の重態であつて、その後も右のような状態を続け翌一九日午前九時二〇分死亡したこと。本件の養子縁組届は中川文五郎の長男源吾の妻である中川寿代が同月一八日午後四時少し前頃館山市役所に戸籍係を訪れ戸籍係鈴木俊吾に代書を依頼し、持参したようらの印鑑を用いて縁組届を作成して戸籍係に提出し受理されたものであることがそれぞれ認められ他に右認定を左右し得る証拠はない。
被控訴人は、甲野ようと控訴人らとの間には養子縁組についての話合いないしようが縁組届出の意思を表示したことがない。したがつて本件養子縁組は縁組の意思および届出の意思を欠く無効のものであると主張する。
しかしながら、<証拠>を総合すると次の各事実を認めることができる。
甲野ようは大正一〇年頃千葉県下で茶屋の女中奉公をしていたが中川文五郎にいわゆる身請をされて同人と内縁の夫婦となり館山市内で同棲するようになつた(文五郎は養子であつた関係上、養親の反対でようを入籍することは許されなかつた)。文五郎は終戦時までは牛馬商をしていて出稼ぎをしていたが、その後館山市内に落付き、よう所有名義の土地建物でようと共に料理店、旅館等を経営し、ようの死亡当時はアパートを経営するなどして約五〇年来右両名は事実上の夫婦として生活を共にしてきた。
ようは昭和三一年九月七日被控訴人の四女並木シゲ子と養子縁組をし、その届出をしたが、事情があつて昭和三四年六月二六日協議離縁し、さらに昭和三七年一二月一九日再度養子縁組をしてその届出をしたところ昭和三九年一月二〇日同女が結婚することになつたため再び協議離縁をした。その後佐野一江や控訴人文代の妹陽子を養子にしようとしたがいずれも実現するに至らなかつたところから、老後その他将来のことを慮り文五郎と相談のうえ同人の孫である控訴人文代夫婦を養子にしようと考え昭和四二年一一月頃石井とくや寺尾しまを介して控訴人文代の両親や控訴人らに対しその交渉をした。始め控訴人らは右ようの申出を断つていたが、再三に亘る申出により結局同年一二月中頃控訴人らはようの養子となることを承諾した。そこで、ようはさつそく建物を増築して控訴人夫婦を住まわせる用意をし、早急に養子縁組の届出をすることにして文代の母である中川寿代に印鑑を預けてその届出をすることを依託した。しかし、その頃控訴人文代は妊娠中で翌年三月一八日頃が出産予定(三月五日)であつたので、出産してから届出をするつもりでいたところ、ようが同年三月一五日までに所得税の申告をするため、判が必要であるというので、同月一日頃ようから預つていた印鑑を一たん返還することなどの事情があつてその届出が遅れていた。そうしている内に前示のように昭和四三年三月一八日未明ようは脳溢血で倒れ、介抱していた文五郎に対し控訴人らの入籍のことを口走るなどしたので、同日午後四時少し前頃前記のようにかねてようの依頼を受けていた中川寿代がさらにようの印鑑を預つて館山市役所に至り戸籍係に依頼して本件養子縁組届を作成して届出をなしそれが受理された。
以上の事実が認められる。
右認定の事実によると甲野ようと控訴人両名との間には昭和四二年一二月中既に養子縁組の合意が成立していたものと認むべきである。
被控訴人は、甲野ようは上記養子縁組の届出がなされた昭和四三年三月一八日には意識を消失し、意思能力を有しなかつたのであるから右届出は無効であると主張する。
しかし、養子縁組の届出は他人にその届出人の氏名を代書させ若くは押印を代行させることによつてすることも許される(戸籍法施行規則第六二条)ところであり、甲野ようが控訴人らと養子縁組をする意思を有し且つその届出を中川寿代に依託していたものであることは前記認定のとおりであるから、本件届出が受理された昭和四三年三月一八日当時ようが意識消失の状態に在つたとしても届出の受理前に死亡した場合と異りその届出の受理前にようが控訴人らと養子縁組をすることを翻意するなど特段の事情の認められない本件においては前記認定の養子縁組届の受理によつてようと控訴人らの養子縁組は有効に成立したものと解するを相当とする。
以上のとおりであるから、昭和四三年三月一八日館山市長宛届出られた甲野ようと控訴人両名との養子縁組の無効確認を求める被控訴人の請求は失当として排斥を免れない。
(石田哲一 杉山孝 矢ケ崎武勝)